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大安寺旋風(昭和48年)
 大安寺旋風の背景
 創部以来しばらくは、いわゆる一回戦チームの域を脱することができなかった野球部が、昭和四十八年の夏季大会では県立普通科高校として戦後の学制改革ではじめて決勝に進み、「大安寺旋風」といわれる大活躍をした。この「大安寺旋風」は、その後の普通科高校台頭の先駆けとなり、県高校球界にさわやかな風を吹き込んだ。開校時創設された野球部が夏季大会に参加したのは三十九年のことで、一回戦で興譲館高に○対八で敗退した。四十五年に一回戦で山陽高にはじめて勝ったものの、二回戦で関西高に二対八で敗退した。その後、四十六年、四十七年はいずれも一回戦で敗退した。
 こうした野球部が一転して大活躍をするにいたったのは、四十六年四月に投手経験者四名を含む中心選手が入部してきたからであった。しかも、彼らは先輩部員が三名だったこともあって二年生の時から正選手として試合に出場して、実戦の経験を積んでいったことが素質に磨きをかけることになった。このことが幸いした。
 四十八年の春季大会では、倉敷商高、倉敷工高、岡山日大高を次々と破り、決勝戦に進出した。決勝戦の興譲館高戦では、毎回走者を出しながら決定打が出ず、二対三で惜敗したが、夏の大会のシード権を獲得した。この大会で優勝候補の倉敷工高戦に快勝したことは、倉散工高が屈指の名門校であるだけに部員にとって大きな自信となった。
 その後、県八校選抜大会でもベスト四まで進み、周囲の期待も高まると、後後会を−−との声もあったが、野球部はこれを辞退し、代わりにバックネットの建設を要望した。当時バックネットはなく、一期生の保護者から寄贈されたゲイジ一基のみという貧弱なものであったからである。PTA・卒業生・一般の人からの寄付を得て、県下有数のバックネットが竣工し、十一月十日に引渡式が挙行された。
 四十八年の夏季大会
 「夏は甲子園だ」という周囲の期待の中でも開校以来の五時下校の鉄則を守りながら、しかも三年生九名を主力とするチームだけに、練習のあいまをぬって補習授業も受けねばならず、練習時間もままならなかった。そこで部員は各自創意工夫をしながら、密度の濃い練習をしたが、エースとなった西山が、「絶対、自分がエースをとろうと思い、試合で打たれたあとボールの。握りを変えてみるなど必死で研究した」と述懐しているように研究熱心でもあった。
 夏の岡山大会は、初戦から苦しい試合が続いた。大安寺高校にとって初戦の二回戦の相手校は津山高で、延長十一回四対三の勝利であった。三回戦の水島工高とは四対一、準々決勝戦の和気閑谷高には一対○で辛勝した。準決勝戦の相手校は春の大会と同じ岡山日大高で、九回に三対二と逆転しての勝利であった。勝利の瞬間、大安寺高校のベンチも応援団もまるで優勝を決めたかのような騒ぎとなった。死力を尽くした戦いの末の勝利であった。
 七月二十八日、県営岡山球場での決勝戦の相手は、甲子園常連の岡山東商高であった。宇根廣監督の下、学校創立以来はじめて決勝戦に進出したといっても、わずか一日一時間半の練習による体力では、炎天下の五連戦は部員にとって苛酷であった。試合は打線が岡山東商高土居投手の速球におさえられ、守っては五連投の西出投手に球威がなく、○対一〇で敗退した。全力を尽くした選手は、表彰式では、優勝旗を手にしか岡山東商の選手に劣らず堂々としていた。
 応援も試合が進むにつれて盛り上がり、決勝戦の前日には「進め、岡山大安寺」の大横幕が作られた。当日一塁側スタンドに教職員、生徒、卒業生、保護者が応援につめかけた。それに兄弟高の朝日高・操山高からの友情応接があリ三校の応援旗がひるがえる大応援団となった。応接団の中には修学旅行から前日帰ってきたばかりの二年生の姿もみられ、「進学校の心意気をに見よ」とばかりのフレーフレーの応援でも、最優秀賞を受賞することができた。
 表彰式後、桐野事雄校長かベンチ前で選手の労をねぎらい、進学校でもスポーツが立派にできることを立証したが、肝心の勝負はこれからと励ました。三年生の部員は、翌春進学面でも桐野校長の期待に応えるとともに、後輩たちに勉学とスポーツの両立を身を持って示した。
 本大会で大安寺高校はシードされてはいたものの、大学進学校であり、本大会の活躍が疑問視されていたが、これを見事にはねかえした。大安寺高校の健闘をたたえて池田徳五郎県教育委員長は、「準優勝の大安寺諸君、勉強と運動を絵に描いたように両立させてくれた」と祝福し、小野啓三県教育長は、「進学校がスポーツでチームワークの好成績をあげたことは非常にうれしい。受験オンリーでなく、スポーツもやれるということは、人間形成を重んじる私としては、この上ない喜びだ」との賛辞を贈った。

「岡山大安寺高等学校 創立三十年史」より


第二次大安寺旋風(昭和62年、63年)
 昭和四十八年に岡山県高校野球界に大安寺旋風を巻き起こした本校野球部は、その後も活躍を続け、ついに昭和六十二年夏、第二次大安寺旋風を起こした。すなわち、第六十九回高等学校選手権大会の岡山県予選で、十四年ぶりに決勝戦に進出、人々をしてそう呼ばしめたのである。
 大会屈指の左腕板野英二投手が、前評判通り実力を発揮し、部員もそれによく応えて、初戦で笠岡工高を三対二、古豪の岡山東商高を六対三、続いての準々決勝では優勝候補の一角であった倉敷工高を三安打に封じ、二対○で下し、準決勝で朝日高を一対○と連破して決勝に進んだのである。
 決勝の関西高戦は七回、菅野剛が本塁打したものの、三点の得点差は大きく、最終回好機到来と見えた一死一塁からの攻撃も、併殺されて、万事休した。

 しかし、翌六十三年の県の秋季大会では、初戦の水島工高を三対二、二回戦の金光学園を三対一と連破。準決勝では優勝候補の倉敷商高に三対二で勝ったばかりか、決勝戦でも作陽高に三対一で勝って優勝を飾った。
 作陽との決勝戦では、一回表に一点を許したが、四回、無死二・三塁からの遊撃手への内野安打で同点、さらに五回に一死満塁から敵失で一点を加え勝ち越し、八回には高岡宗徳、小川貴広の連続二塁打で、だめ押しの一点を加えて三対一で優勝、中国大会へ駒を進めた。
 中国大会は、同年十一月四目、地元岡山球場で開催され、本校の主将寺脇洋が選手宣誓の栄に浴したが、初戦で、島根県代表の松江東高に惜敗した。

「岡山大安寺高等学校 創立三十年史」より

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岡山県高校野球史上初の完全試合
2017年7月17日
スコア⇒PerfectGame20170717.pdf


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【岡山普通科5校戦について】
昭和55年に岡山一宮高校が創設され、岡山市内普通科の総合選抜が5つの高校になった。それまでも朝日・操山・大安寺・芳泉の4校による対抗戦を5月の中旬に県営グラウンド中心に行われていた。岡山一宮高校の1期生が2年生になった昭和56年に4校戦から5校戦になった。以来5校により各競技で切磋琢磨するとともに、対抗心をもって自チームを高め、愛校心を培い、勉学においても高めあった。野球は抽選で5角形の頂点に各校を配置し、隣り合った2校と対戦し勝率で順位を決めた。県営野球場では当日3試合しかできないため、事前に2試合行われていた。2校が2勝し優勝を分け合うこともあった。平成11年度入試から岡山市内普通科5校の総合選抜が廃止されるとともに5校戦も平成10年度をもって終了した。
15年の年月を経て5校の野球部の親睦と発展を期して、平成25年よりリーグ戦という形で野球部の5校戦を復活した。
※大安寺:山口監督(大安寺22期野球部OB)、朝日:大口監督(大安寺17期野球部OB)、芳泉:森野監督(大安寺23期OB)のご尽力で5校戦が復活しました。現在は操山:富田部長(大安寺21期)もおられます。
<過去の優勝校(野球)>
昭和56年(第1回)芳泉
昭57(2回)大安寺・芳泉
昭58(3回)操山
昭59(4回)朝日
昭60(5回)操山
昭61(6回)朝日・芳泉
昭62(7回)大安寺
昭63(8回)朝日
平成元年(9回)大安寺
平2(10回)朝日
平3(11回)操山
平4(12回)朝日
平5(13回)朝日
平6(14回)操山・芳泉
平7(15回)雨天中止
平8(16回)操山・大安寺
平9(17回)操山
平10(18回)操山
平25(19回)芳泉
平26(20回)芳泉
平27(21回)大安寺
平28(22回)朝日
平29(23回)一宮
平30(24回)芳泉
<岡山5校リーグ戦パンフレットより>


ユニフォーム変遷
各年代で着用したユニフォームを再現してみました。

ユニフォーム(1期)


ユニフォーム(2期)作製中
ユニフォーム(3期)作製中

ユニフォーム(4〜10期)



ユニフォーム(11〜13期)



ユニフォーム(14〜16期)



ユニフォーム(17〜26期)



ユニフォーム(27期〜現在)