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デアイ(出会い)
 この愛すべき原付が、我が家にやってきたのは1997年11月のことでした。以前乗っていた原付(スクーター)の調子があまりにも悪く、修理代がかさんでいたので、購入を決意したのでした。雑誌などを読み漁って、価格・スタイル等全てにおいて私にフィットするように思えたのがこれでした。
 しかし、最終的にに色を×(郵政カブタイプ)に決めたのは、当時の彼女(現在の妻)の嗜好によります。



オモナヨウト(主な用途)
【学生時代】アパート〜バイト先〜大学の往復

【アルバイター時代】アパート〜バイト先の往復

【社会人時代(現在)】
 たまに近所で用事があるときに使用。今でも、たまに30km程走ることがあります。駐車場がない市街地に出かけるには最高。



キセイ(帰省往路)
 1999年9月13〜14日。岡山〜山形間約1,200km。

 1週間ほど前から決意だけは固めていたのですが、宿泊先や地図の用意は全くなし。道路には案内板もあるし、分からなくなれば、コンビニで地図の立ち読みをしたり、人に尋ねればいい、なんて軽く考えていたのでした。

 午前8:00頃に、岡山市の西部にあるアパートを出たのでしたが、県を出るのでさえ、意外なほどの時間を費やし、気付けば明石大橋付近で昼を過ぎているではありませんか。果たして、無事山形にたどり着けるのか???そんな不安が、私の頭を過りました。ですが、次の瞬間、なぜか再び山形を目指し、走り出している自分がいたのでした。何とか夕方には京都に入ることができたのですが、そこで車に巻き込まれそうになり超ブルー。そんなことがあったにも関わらず、何かにとりつかれたように夜も走り続けました。興奮しているせいか、不思議と眠さは感じませんでした。大型トラックがわんさか私の横を追い抜いていきました。その度に何度も吸い寄せられそうになりました。

 その夜、眠りについたのは、午前3:00を過ぎてからでした。テントはもちろん、寝袋さえも持参していない私は、沼津の「道の駅」のベンチで2時間だけの睡眠をとりました。

 午前5:00をまわったところで、2日目スタート。出発して間もなく、左側に富士山が見えていることに気が付きました。富士山の前に君臨する高い工場の煙突は、自然をも凌駕した20世紀の文明を象徴しているかのようでした。

 午前8:00を過ぎたところで、箱根に差し掛かりました。毎年恒例の「箱根駅伝」でテレビで見ることはあったのですが、実際に登ってみると意外や意外、相当登りがきついのです。原付も2速メインでしか走ることが出来なかったのです。それに加え、登れば登るほど、モヤがひどくなり、カッパを着なければ服が濡れてしまうほどでした。芦ノ湖が見えると、同時に道を見失ってしまいました。今まで国道をメインに走ってきたのですが、道の幅が急に狭くなってしまったからです。とにかく、まだ先に続いていそうな道を進みました。それが正解でした。しばらくすると、下り坂になりました。曲がりくねった坂道で、日光の「いろは坂」を連想させました。

 それ以降は、東京まで順調に距離をかせぐことができました。ところが、田舎者の私にとって東京の大都市が鬼門だったのです。訳も分からぬまま、案内板のとおりに進路をとりました。ある交差点を左折すると、眼前に真っ赤な東京タワーが、ある交差点を右折すると左手に皇居が。。。気がつけば、私は妙な感動に包まれていました。まさに「おのぼりさん」。このときの私には、この言葉がピッタリでした。

 その後、なぜか私は国道4号線に進路をとらずに、茨城方面を目指してしまったのです。後悔は、先に立たず、夕方にやって来ました。福島県に入ったところで、道を見失った上に、雨に降られ始めたのです。本屋で、地図を見て経路を確認しました。それでも、明確な確信を得られないまま、走り出しました。国道4号線に進路をとっていれば、少なくとも道を見失うことはなかったし、日付が変わる前に山形県に入ることができたはずです。トホホ。。。

 福島と山形の県境に差し掛かった頃には、精神的にも肉体的にもボロボロ。雨脚も激しく、カッパの下にナイロンパーカーとスウェットを着こんでいても、寒さはしのげない。そんなこんなで、やっと実家に着くことが出来たのは、岡山市を出発してから約43時間後の午前5:00頃。暖かい風呂に入れてもらい、ホッ。。。



キセイ(帰省復路)
 そうです、行きがあれば帰りがあります。1999年9月26〜27日。山形〜岡山間約1,200km。約2週間の実家での滞在。その間は懐かしい面々との再会により、時間と距離を超越できました。

 出発は、26日の朝6:00。母手作りのおにぎりをバックパックの中に詰め込み、一路岡山を目指したのでした。往路は、太平洋周りだったので、復路は、日本海周りで帰ることに。私の実家は、山形県の県北で内陸部なので、まずは進路を西にとり、日本海を目指したのでした。鶴岡の市内を過ぎた頃からでしょうか。徐々に海が見え始めたのは。鼠ヶ関の「道の駅」で、海の青さに心が浄化される思いがしました。

鼠ヶ関

 私は、自分でも方向音痴であることを自覚しているのですが、何とその日に限ってそれを忘れていたのでした。新潟に入るとそのことを否が応でも身体に刻み付けられたのでした。国道7号線を降りてからが、悪かった。走れども、走れども日本海が見えてこない。道を間違えたのか?そう思いつつ走り続けました。気が付けば、軌道にきちんと乗っているらしく、きれいな夕焼けまで見ることができました。

日本海の夕焼け

 そのまま走り続け、疲れ果てて眠りに付いたのは午前2:00頃福井の「道の駅」でのことでした。この日は5時間ほど眠りました。「道の駅」の中が暖かかったせいもあるのでしょう。

 27日の朝、7:00頃に再び原付にまたがる。往路とは違い、それ程交通量も多くはなかったので、巻き込まれそうになる恐怖感も少なくて済んだ。敦賀で生まれて初めて原発を目にする。巨大な施設に、威圧感を覚えた。

 昼頃には、京都の天橋立に到着。原付にて松林を散策。

天橋立

 そして、早くも夕方には岡山県に入ることが出来たのでした。アパートには18:30頃到着。途中、鳥取の海沿いの曲がりくねった道は、原付でも充分に楽しめました。相当急なカーブもあり、追い抜かれたバイクにも追いついたり出来ました。

 復路の方が、睡眠時間もフォトもしっかりとれたし、時間的にも距離的にも楽だったようです。所要時間約36時間30分。距離としても100kmほど短かったようです。

 とにかく、プランなしの強行行程で、各地の名勝で時間を割くことが出来なかったことが残念でなりません。よろしければ、みなさんもこんな旅をしてみてはいかがでしょうか。私は、もう2度とできませんが。。。



ネンピ(燃費)
 みなさんが最も興味があるコンテンツのひとつではないでしょうか。ご参考までにどうぞ。随時アップしていく予定です。

【1998年1月23日〜2010年1月9日まで】
littlecub.xls



ゲンザイ(現在)
 2005年8月頃から、ウィンカーの接触が悪いらしく、点いたり点かなかったりしていたが、それも9月に入るといよいよ点灯しなくなりました。バラしてみれば分かるかも。。。などと素人考えでバラしてみるも、解決できずじまい。そのまま乗っています。なるべく早いうちに修理に出したいものです。ブレーキも甘く、危険な車両と化してしまっています。

 2005年11月に自賠責の更新をしました。JAからセブンイレブンの保険に代えました。ネットから登録でき、お店で支払をし、保険証券を受け取るだけでかなり楽でした。

 2006年3月17日(金)、久々にエンジンをかけてみたのですが、気が付けば前タイヤの空気が抜けており、車両自体もボロボロ。修理に出したいけど、修理代が怖いです。

 しばらくお休みいただいておきましょう。

 2007年11月頃、タイヤにも空気を入れると走れる状態に。ただ、メンテをしないと安全には乗れません。


 2008年5月4日(日)、ついに近所のT自転車店にてメンテナンスに出し、バッテリを交換し、ブレーキの弛み、ペダル曲がりの修正、オイル交換などを行ってもらいました。経費3,000円と良心価格!!完全復活↑↑↑

 GW明けの5月7日(水)、さっそく職場までの片道28kmを原付で出勤。約1時間弱の通勤時間。正直ちと疲れました。帰宅の途中、山道でガス欠になりかけ、サブタンクからのガソリンの供給でなんとかスタンドまでしのぐことが出来ました。久々に乗ったせいか、かなり燃費はダウン↓しているようです。普段は、電車通勤なのですが、業務が忙しくなった際には、終電に乗ることができなくなると思われるので、今後重宝しそうです。ガソリンの高騰と駐車場代の節約のためにも。
 2008年9月3日(木)現在、毎週木曜日は御津RCの定例練習日。JRでは練習開始の18:30には間に合わないので、この日だけは原付通勤片道約30km。結構しんどいけど、中学生との練習のためだぁ。自分にもいい刺激になっています。
 2010年1月9日(土)現在、上記「御津RC」は「みつAC」と名称変更し、より競技志向の強いクラブへと変身を遂げ、月1回御津中学校で練習を行っていますが、私は仕事の都合上参加できなくなり、自分が登録させてもらっている岡山クラブの土・日の練習の足として利用しています。

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2001-2010© Kurt